満月通信 219号 ( 如 月 )

慈 悲 と は

令和7年3月14日は 十五夜の満月です。


温かな日、肌寒い日が、交互に切り返されているような陽気の毎日ですが

少しずつ、少しずつ、冬から春へのお引越しがされているように感じます。

梅の花はずっと、咲き続けてくれています。

土色の台地には、緑の草々、白い小さなナズナの花、濃い桃色の小さなホトケノザの花など、彩を取り戻し始めています。

温かな春の季節までもう少し、お身体には十分ご自愛ください。

先日、『慈悲』という言葉について質問を頂戴しました。

その折の説明に不足が無かったか、振り返る意味を含め、『慈悲』という言葉について考えてみたいと思います。

国語辞典には、「哀れみ、情け」などと記されています。

「慈」一字の意味には「いたわり育てる心を示す、いつくしむ、めぐむ」などあります。

『慈悲』いう言葉は、初期の仏教修行者の持つべき基本的徳目の一つとされた

「四無量心」の「慈・悲・喜・捨」から生まれた言葉のようです。

 「慈」は、他者の幸せや安心を願うこと。 

 「悲」は、他者の苦しみを除こうとすること。

 「喜」は、他者の幸福を共に喜ぶこと。  

 「捨」は、偏りの心をなくし、人を平等にみる心を表します。


ここからは個人の解釈になりますが、『慈悲』とは、その方が人間として、その本質が成長・向上することを目的として、その方を活かそうとすること、育もうとする対策であると考えます。


子供が転んだ時にどの様な対策を取ることが適切であるか、考えてみましょう。

ヨチヨチ歩きの1~2歳の頃でしたら、転んだ後に直ぐに抱きかかえ、起こしてあげることが良いでしょう。心の安心や、信頼を産む絆づくりにも役立ちましょう。

4~5歳の幼稚園児の頃でしたら、転んでから起き上がるのを見守り、立ち上がったところで「自分で起きれて、えらいね」などど誉めること、言葉掛けすることが良いでしょう。自立心や強さを身に付ける、手助けになるかも知れせん。

小学生になり、サッカーなどの試合中に転んだ場合などは、本人に任せ、大きなケガをしていないか、我慢し過ぎていないかなど、見守ることが大切であろうと思います。余計なことをすると、試合の邪魔になりますし、うるさいと嫌われてしまいます。


「転んだ後の支援」ひとつであっても、このように幾通りもの対策があります。相手の状況に対してどの方法が適切であるか、成長・向上に繋がるかを十分に考え、行う必要があると思います。これを誤ると、お節介の慈悲魔になってしまいますし、本質的にその方の為になりませんね。


芥川龍之介が書いた「蜘蛛の糸」と言う小説があります。

カンダタという盗賊がお釈迦様が垂らされた”蜘蛛の糸”をよじ登り、地獄を脱出しようとしたところ、他の亡者も下に続いてきました。重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって大声で「この蜘蛛の糸は俺のものだ。お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。すると、その途端、蜘蛛の糸が真上で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ち、元の地獄の暮らしに戻るという話です。


何故、この時にお釈迦様はもう一度、蜘蛛の糸をたらして上げなかったのだろう?

冷たいのかな?などと、思ったことはありませんか?


今、この年になって考えてみると、大悪党のカンダタであっても、地獄の世界で暮らすうちに、いずれ自分の悪事に気づき、反省し、悔い改める時がくる。

そう信じていらっしゃるからこそ、地獄暮らしを続けることを黙認されたのではないでしょうか。その時に至れば、堂々と祝福を受けて地獄の世界から出られるのです。


『慈悲』の言葉に何故「悲」が使われているの?、何故「悲しい」の?と聞かれた方もいらっしゃいました。

その方が成長し、向上するためには、一次的な辛さや苦しみを体験し、それを乗り越えなければならない時があります。それを不憫に思い、「悲しみ」をこらえても体験を促さねばならない場合があります。

己の心に悲しみをいだくことがあっても、相手のために尽くすことが、真の『慈悲』であると思います。


他者からの相談に対し、希望を持つように提案されたり、選択肢の多い提案をされるなど、自主的な問題解決を促すように導き、アドバイスされる方がいらっしゃいます。

大きな『慈悲』の現れであると思います。

少しでも近づけるよう、人間力を向上させたいと思います。

次の満月は 令和7年 4月13日です。

また、お立ち寄り下さい、 よろしくお願いたします。

  月 真行

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です